共箱蓋裏「ノンカウ 赤茶碗 東雲シノノメ (花押)」啐啄斎宗左 筆
(口径10.8cm・高さ8.3cm・高台径5.0cm・重量233g)
楽家三代道入(吉兵衛、別名ノンコウ)(1599~1656)は二代常慶( ~1635)の長男で、嗣子は四代一入(1640~1696)、また本阿弥光悦(1558~1637)との交流は良く知られています。千家との関連では千家三代宗旦(1578~1658)とほぼ同年代に生きたことになり、表千家江岑宗左コウシンソウサ(1613~1671)、裏千家仙叟宗室センソウソウシツ(1622~1697)、武者小路千家一翁宗守イチオウソウシュ(1593~1675)とも年代が重なります。
年代からみてノンコウは実父常慶と一緒に作陶した期間が長く、本阿弥光悦との交流も十分ですが、長男一入とは短期間だったのですね。常慶と光悦とは同年代ですから、両者からの薫陶を受けて道入の作風は形成されていったのでしょう。一方、実生活においてノンコウは貧窮していたと伝えられています。
元伯宗旦は10歳ころ大徳寺に預けられ、1594年千家再興が叶ったことから還俗しています。若くして応・燈・関の臨済宗寺院で修行したのですから、清貧で「乞食宗旦」と呼ばれたのも十分理解できます。宗旦の好みの道具を作ったとされるノンコウの生き様には宗旦からの影響もあったのでしょうね。
椀形ワンナリの整った形で、薄造り、軽量です。見込みはあたかも轆轤を使ったかのように茶溜りに向かって均一滑らかに削られています。胴は軽く締めてあり、手持ちは良いですね。口造りは所謂は”蛤端ハマグリバ”です。高台の畳付きは広く、そこに嫌味のない箆削りが入り、中央に渦巻状の兜巾が立って変化に富んだ造りになっています。
ノンコウの赤楽は1000度以上の高温度で焼成されていると聞きました。胴から腰にかけて熟柿色の濃い肌合いに僅かに黄色が入り、淡黒色の窯変がみえます。ざらざらした手触りは砂釉によるものですね。見込みの特に胴の裏側は少しカセていて、茶溜りには筆で描いような黒い班が見えます。このカセた見込みが水を吸うと綺麗な赤色に発色して本当に驚きました。「東雲シノノメ」とはよく命名したものです。
350~400年前の道入の楽茶碗が良い状態で残っていることに感謝の念が湧きました。稀代の芸術家である光悦が「今の吉兵衛は至て樂の妙手なり 後代吉兵衛が作は重宝すべし」と称賛しているのですから、とても貴重なものなのでしょうね。
共箱蓋裏「宗入作 黒茶碗 頭巾 (花押)」啐啄斎宗左 筆
外箱蓋裏「宗入作 黒茶碗 銘 頭巾 啐啄斎箱 左(花押) 」而妙斎宗左 筆
外箱箱書 直入極書付
(口径10.3cm・高さ7.9cm・高台径5.0cm・重量374g)
楽家五代宗入(1664~1716)の黒茶碗で、表千家八代啐啄斎(1744~1808)により「頭巾」の銘が与えら、外箱は表千家十四代而妙斎(1938~)と楽家十五代直入(1949~)の極書があります。
宗入の曾祖母は本阿弥光悦(1558~1637)の姉で、宗入と尾形光琳(1658~1716)・乾山(1663~1743)とは従兄弟関係にあることは有名です。2歳で楽家四代一入(1640~1696)の養子になり、後に一入の娘と添い遂げています。楽家歴代中で最も長次郎に近い茶碗を作ったとの評価もあるようです。
胴締めの半筒形で、やや厚作のため手持ちすると重厚感があります。口縁はぽってりして少し内に抱え、緩やかな起伏が付けられています。総釉で無印、畳付に五徳目が3個、一重高台の内に低い兜巾が見られます。高台の内縁底に浅い穴が2個並んで設けられており、何か意味があるのでしょうか...。
高台から腰にかけての器肌はスベスベして光沢があります。箆を使った作りでしょうが、箆削りの痕跡は分からないくらい滑らかです。胴締めの上部からは艶消し~柚子肌になり、見込みは一転して宗入の特徴とされる「かせ釉」に覆われ、明瞭に削り出された茶溜りの周辺は再び光沢ある釉景色に変化しています。
一見地味なようですが、かなり技巧を凝らした作りになっているような印象です。銘の頭巾について、高麗茶碗にも頭巾(一名「紹鷗頭巾」)の銘があるお茶碗があり、大正名器鑑には「形大黒だいこく頭巾に似たるを以て名つく」の記載があります。
利休百回忌(元禄3年:1690年)に居合わせたこと、従兄弟の尾形光琳・乾山と同時代に生きたこと、元禄という社会情勢等が宗入の作陶に影響したことは確かなのでしょうね。
内箱蓋裏「長入作 黒茶碗 楽吉左衞門 (了入中印)」
外箱箱書 直入極書付
(口径12cm・高さ8.6cm・高台径5cm・重量319g)
楽家七代長入(1714~1770)の在印黒茶碗で、長入の次男である楽家九代了入(1756~1834)極箱に入り、十五代直入(1949~)極箱が外箱になっています。長入のお茶碗は大振りの厚作という記載を見かけますが、箆を大胆に使って内外を削ぎ落としたためでしょうか、手持ちは思いのほか軽やかで見込みもたっぷりしています。
形状は素直な半筒形で、口造りは少し内に抱え緩やかな起伏が付けられています。高台脇から腰にかけて全く逡巡のない浅い横箆4本がキッパリ入り、胴には変化に富んだ箆削りが全面に回っていて手持ちの良さを引き出しています。また茶溜りが右渦の巴に削り出されているのは長入の特徴のようです。
口縁の五つの起伏を「五岳」とよび、長入から一つの型になったとされ、中国の五霊山(東岳泰山、南岳衡山、西岳崋山、北岳恒山、中岳嵩山)になぞらえての名称ということです。中国で「五山」といえば南宋時代の臨済宗の最高の寺格を示す五つの官寺を指し、京都にも五山はありますね。一方「五山送り火」については、長入の時代にその名称があったかどうか分かりません。何れにしても楽茶碗の「五岳」は祈り...?。
総釉掛けの高台は低く、ほぼ正円形の整った形状で、五徳目も三個綺麗に入っており、真ん中の樂印も丁寧に刻印されています。この高台からは真面目で几帳面な性格のように感じられますが如何だったのでしょう...。
釉調が出色で、基本は長入の特徴とされる艶やかな黒釉ですが、高台・胴・茶溜りには一入の特徴とされる朱釉が箆削りの縁に所々薄っすらと現れ、見込みは全体にスベスベして滑らかなのですがカセたような釉景色になっているのです 。
同じ作者の楽茶碗でも出来不出来はやはりあるのでしょう。また楽歴代に対しても専門家の評価は色々あるようです。でも一碗一碗それぞれに楽吉左衛門の魂が乗り移っているに違いありません。僭越ですが「和敬清寂」の心で作品に対峙すれば、きっと心に響くものがあると思います。そうして惚れ込んだお茶碗には当然愛着が湧きますよね。